父を送って4年 ・・・ 膵臓がんでした

5月17日、
茨城へお墓詣りに行ってきました。
もうすぐ父が旅立って4年になります。

膵臓がんでした。

通院治療をしていると聞いて
病院で待ち合わせ診察に同席したのは夏のこと。
検査データを見てすぐに
「今の治療状況は父の生き方にそぐわない」
と感じとったのです。

本人の意向は、
「自分の思うように動くこと(日本キジの世話を続けること)
=自宅で過ごすこと」
聞かずともわかる答えでした。

「できるかぎりその実現に向けて応援する。
でも、
どうしても自宅で痛みがコントロールできなくなったときには
難しいかもしれない。」
そう伝えました。

旧知の医師からの情報を糸口に、
MSWの助けを借りながら
地元の緩和医療医(病院)を探し、
訪問看護師を探し・・・。
緩和医療の利用を考えるときには、
早期からの情報収集と利用意思表示が
とても大切だとわかりました。
そのためには、
本人に厳しい現実の可能性を告げなければなりません。
本人の意思表示がなければ、
どの経路も行き詰まって前に進めないのです。

そして、
サービスがあるかどうかではなく、
「質の高いサービスを提供してくれる人」を探す執念。


年を越し3月末、
ヘモグロビンが通常の3分の1以下、
吐血・下血、・・・
普通だったら歩くことさえ難しい状態でも、
長年のライフワークである日本キジの最終出荷を
一人でやり遂げました。
これが父にとっての最終目標だったはずです。
(唯一手伝うことのできる妹は、ケージの外で待機)

家族は
いざとなったらケージの網を破って
逃がすしかないだろうと考えていました。
広いケージのなかで野鳥を網で傷つけずに捕獲することは
素人にはできません。
目標というもののもつ「力」は想像以上でした。

外で倒れた時を心配する母に、
「そしたら、ビニールシートをかけどげばいい!」 
という言葉。


父にとっての「痛み」・・・
「歯が折れちったよ(苦笑い)」 
(そんなに痛みを我慢しなくたって・・・・
私は言葉にせず、笑い返しました。)
二人だけの時に聞こえてしまった独り言 
「こんなのは、Tに比べたら大したことねぇ。」 
(父にとっての「痛い」は、
教員時代に受け持ちだった女子生徒、
自転車で下校途中に
ダンプトラックにはねられて亡くなった
Tさんの痛みが基準だったことがわかりました。)
同居の家族は「痛いと言わない」と言っていましたが、
痛くないわけがないのです。

「痛いと言ったら家族に入院を勧められる」

在宅が可能な条件を伝えた私の言葉が、
父のそのような行動に結びついたことは否めません。
(でもそれが一緒に暮らす家族の考えからすれば現実でした。)


亡くなる約2週間前、
私に電話してくれと頼まれたと母から連絡。
しばらくの間
電話口に出ようとしなかったのです。
きっと自分で決めるはず と
見守りの姿勢でいました。
主治医や訪問看護師から
電話で状態をお聞きしていましたので、
母には
病院に電話すれば分かるようになっているからと伝えました。

夫の休日を待って病院を訪問。
麻薬の持続注入でうつらうつらの中、
「お風呂入れねえなぁ」という言葉を聞いて、
せめて足浴をと
道具をお借りして準備しましたが、
「風呂じゃなくちゃぁ。・・・いいよ。」で断念。
(いくらなんでも無理よ。)

ところが週明け、
お昼には、
自宅から持ってきた好きなものを口にし
(通過はしませんから口に入れて味わうだけですが)、
午後には、
なんと4人の看護師で
大好きなお風呂に入れていただいたのだそうです。
お風呂から部屋に戻って
「かあちゃん!気もちいがったよぉ。」
と満面の笑顔とか。
それを母からきいて、
素晴らしい医師や看護師たちと出会えたことに
感激してしまいました。
緩和病棟ではない普通のHCUでのことです。

その後は静かに眠りに入ったようです。


葬儀では
「痛みもなく、・・・」
とあいさつしている妹夫婦。
 ・・・でした。


40年以上前に
私と一緒に3羽から始めた日本キジの養殖。
初めは失敗ばかりでしたが、
毎年1000羽以上が茨城の山に放たれていきました。


戒名にはふつう動物を示す漢字は使わないのだと
お聞きしたことがあります。
でも
「教」とともに「雉」という文字を入れていただきました。
日本の国鳥ですものね。

旅立ちの時に胸の上に乗せたキジの卵3個、
もう何羽に増えていますか?




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この記事へのコメント

2014年08月18日 12:51
読ませていただきました。
お父様も 天国で喜んでおられましょう!

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