それぞれの人がもつ それぞれの死生観

「安楽死」や「尊厳死」が取り上げられているようですが・・・

その他にも、

「平穏死」「自然死」など、最期の迎え方をあらわす様々な言葉があります。

参考 日本尊厳死協会

個人的には、自分の価値観を尊重されて、苦しむことなく最期を生きたい
と思っています。

どんな病気になるか、どんな事故・災害に巻き込まれるか、分かりません。

でも、だれでも いつかは 最期を迎えます。

「いつ死が訪れても後悔しないように生きる」
そう思って生きているのですが、・・・・・どうでしょう。

実際に病気になったら、自分の中で何か変化が起きるのかもしれません。


長生きしたいという気持ちを持ったことは一度もないのです。

ただ、自分の意志とは関係なしに物事が進められていくのだけは嫌です。


それぞれの人がもつ、それぞれの死生観。

それを尊重するためには、
いつも生きること(その終わりの瞬間である死)を考え続けます。

考える基になっているのは、
これまでご縁をいただいた たくさんの方々の生き方そのもの。


アルフォンス・デーケン先生の主催する「生と死を考える会」に参加していたのはもう25年も前のこと。

それまでの数年間は、生きるということを「死」を身近にして考えていました。

私がまだ20代前半の頃。
今のがん治療とは違って、本当に心身共に苦しい治療を受けながら
最期を過ごされた方々がたくさんいらっしゃいました。
痛みは ぎりぎりまで我慢するような薬の使い方が普通でした。
病名告知もされず、家族の「うそ」を感じながらも気付かないふりをしながら・・・・。
手術をしたにもかかわらず、元の生活に戻ることもかなわず、・・・。
地域の一般的な病院では、個室に移されると 看護師さえも足が遠くなりがちな状況にありました。
学生(看護助手)であったり、特別な非常勤看護師であった私は、
病棟で比較的自由に行動することを許されていたこともあって、
時間ができると、個室を訪問し そのような方と時間を共にすることが多かったのです。
正規の臨床実習ではない ここでの経験が、「個人(individual)」 に気づかせてくれました。

そして、新卒看護師として大学病院・集中治療棟に勤務するようになって、
今度は、高度な医療が提供されることで「生きている」人のお世話をすることに
なります。


今では、自分の健康情報は自分のもの。
利用する医療も、自分が決定することができる世の中になりました。
認知機能が損なわれない限り、自分で自分の最期の生き方を決めることができるようになったのです。

でも、自己決定の前には、理解・判断の力が必要です。
この部分をどうやって支援していこうとするのでしょう。

その人らしい最期の時をどうやって支えられますか。
その人の「声」を聴くことからはじまると思うのです。
そこが最も準備されていないと思うのです。

尊厳死とは、尊厳を持って最期を生きること。
(単に、望まない延命治療をしない、ということではないと考えます。)


昨日の新聞をみると、65歳以上の方でも
死について家族と話をほとんどしていない方が予想以上に多いようでした。
「息子(娘)は わかっているから。」 ・・・本当に そうでしょうか?

健康に心配がないうちから、年齢に関係なく、
最期の過ごし方について身近な人と 話し合っておくことが大切だと思います。
エンディング・ノートを家族と一緒に書いてみることも一案です。


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