「考えること」を考え続ける。。。 

「考えること」を考えつづけています。

『14歳からの哲学』はそれほど引っかからずに読めたのですが、
『暮らしの哲学』は、やけに理屈っぽいのです。

逆説的な説明が頭を混乱させます。。。

でも、
池田晶子さんって、素直に[面白い人だなぁ。] と感じました。


読み始めてすぐに、
日頃自分が頭に置いている大事なフレーズ「どう生きるかを考える」を
否定されました。

ん???

知りたいのは、「どう生きるか」ではなくて、
「生きているのはどういうことか」。

そうか、
この人には、過去だけではなく、未来も「ない」のだ。

「現在」しか生きることができない という立場かな。


私は、[未来をイメージしながら今を生きる]という感じ。

池田さんは、[生きているというのはその時だけ] と考える。

哲学をベースに考え続けてきた池田さんにかなうわけはないのですけれど、
そのまま[はい、そうね。]というわけにはいきません。。。
そんな態度は、「考える」ということからは程遠い。

池田さんはそう考えるのね。
[その違いはどこから来るのだろう] と考えながら
そのあとを読んでいくことになります。

多くの部分は違和を感じないわけですから、
かなり近い精神を持っているのだと思うのです。
多くの部分は、[そうだ、そうだ。]
時に、[そっか、そう考えるのか。]
とか、[そこまで言葉にしちゃいますか。]・・・とか。

たとえば、・・・
私など、
TVで北朝鮮がどうのこうのと報道しているのを聞いても、
オスの縄張り争いにしか思えません。
池田さんも
「ミサイルなんて来たら、もう焦土なのですよ。」とあっさり。
私は、即死って 痛いとか苦しいとかないと思うんです。
それに、どう騒いだって避けられないものは避けられない。
北朝鮮のミサイル発射を受けて、
屋内に退避せよとか、地下鉄を止めたりとか、
なんか現実離れしているなぁ。。。と感じるわけです。
そのあたりの感覚はほぼ一致しているように感じました。


既に自分の余命がそうは長くないことを知りながら書いている文章です。
拝読しながら、
死を身近にしてどんな心理が働いているのだろうと、
私は常に気を回していました。



[死んだら無]

池田さんは、死が近いお父様と交わした言葉を通して、
「死」は怖いものか 、という一章を扱っていました。
池田さん自身はもちろん怖いとは感じていませんね。
淡々とした語り口は変わらない。
[死んだ人は無くなっても、残された人の側に死んだ人への思いが存在する]と考える。(もちろん この一文に表せるほど単純ではありません)

(私)「そうねぇ。。。」

私も「死んだら無」派です。
何も残らぬように布袋に入れた骨を土に埋めてほしい
(ツボに入れたら土に還れない)
“思い”を持つのはともに暮らしていた家族やその他少数の人だし、世代を考えれば宇宙や地球の歴史からしたら限りなく無に近いでしょ。
墓標(生きた印)などいらない。
[死後の世界など無]と考えるから 儀式も宗教もいらない・・・のです。
この地球(もっと大きく宇宙)の歴史の中で自分という存在の大きさをことさらに大きく考える道理などありません。
セミやカラスのように、自然の終わりでよい。
昨今は猫や犬まで人間同様に扱われるようですけれど。


生まれれば、(老いて)、死ぬのは当たり前のこと。
池田さんは、40半ばで中年の身体の変化を感じ、
年を重ねることによる ものの感じ方や考え方の変化 を語っています。

私も[やればできる]なんて考えていますが、
[やったらできたとして、そのあとを覚悟せぇ!!]
というのが50半ばの今の感じです。 (笑)
体力の低下や体の不自由は、認めざるを得ない。。。
その代わりに、若さを求めたりもしない。
ここも、池田さんと同じでしょうか。
年齢に合わせるのではなく、自分(の精神)に合わせて生活する。
時に「年齢不詳」と言われたりします。。。
基準が自分自身であって、世の中一般ではないから。


同じ人間なのにみんな違う」 

この章も  (*-ω-)ウンウン、ナルホド。
この一つの文の中に「同じ」と「違う」が併存する。。。

「生と死」

「在ると無い」

「相対的と絶対的」

「主観と客観」

 ・・・・

さまざまな概念が、対極としてではなく関係する。

「メビウスの輪」ですか。そうですね。


一回読んでもすこしも「分かった」とは言えないのが私の感じ。



しかしながら・・・・

もう一度読もう、と思いながら、

春から夏へと向かうこの時期はやりたいことがいっぱい。
(植物の手入れです)

一方、
やりたいことはたくさんあるのに、身体は年相応の不自由さを表わす。
「頑張りすぎて、動けなくなる。。。 頭が痛くなる。。。」
→ 本に手が伸びない。

自由にならない自分の身体を感じて、
池田さんのこころには近づいているようです。
(何かをするためには、「身体」が必要なのです)


年を重ねるのは悪くない。

若いころには分からなかったことが分かるようになる。
それが年を重ねるということ。
まだ、50代(中年)までですけれど、
さらに年を重ねれば
その年代のことが少し分かるようになるのでしょうか。


池田さんは、死の直前まで精神を保って執筆をつづけた。
最後の章は、「春」。(亡くなったのは、2月下旬)
「春」で始まり 「春」で締めくくりました。。。

羨ましい生き方だなぁ、と思います。

人生は長さではない。


「死んだら無」のはずですが、
池田さんの「精神」が「言葉」として残したものが 今なお多くの人の中に「在る」。
なんでも 本日 夫が市立図書館で検索したら、
池田晶子さんの著書は、すべて貸し出し中だったそうです。

池田晶子さんの46歳の死について
「もったいないなぁ。生きていればもっと・・・」と、夫。
「いや、生きている時間を大事にしたから残したものが大きかったんじゃないかな。最期までペンを持ち続けたということは精神を生ききったということでしょ。私にすれば羨ましい。」
「そうかぁ。・・・」(曖昧な返事)



思うように動かなくなる身体とともに生きるのは
思った以上に大変なことなのかもしれません。。。(今ごろ気づく)

なのに、
多くの人は長生きしたいと願うらしい。。。(ここが私には不可解)


「分かる」は、とてもとても難しい課題ですが、
もう少し読みを重ねてみようと思います。
読むたびに読み取る意味は深くなるはずですから。

サッと読めてしまう本より、
行きつ戻りつしながら じっくり考えながら読んでいく本のほうが価値は大きいのです。





それぞれの人の ぞれぞれの価値観 を尊重します!
埼玉県鴻巣市の開業保健師 ヘルス プロモーションサポート栗原 HP はこちら

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック